【FFT SS】TEARDROP ON THE SNOWDROP
その日は朝から雪が降り、それは夕方になっても夜になっても止もうとはしなかった。
ライオネル城での禍禍しい悪夢のような出来事、ルザリアでの異端者宣告、オーボンヌでのシモンの告白と妹アルマの誘拐。そしてゲルモニーク聖典によるゾディアックブレイブの真相……。それらが次々とラムザをはじめとする仲間達に襲いかかっていた時だった。
そしてアルマを救出するために急ぎ、リオファネス城へと向かわねばならないラムザ達の前に、雪は文字どおり白い壁となって立ちはだかる。時折出没する敵と戦うのではなく、1日中吹き荒れる雪と格闘した結果、ようやくルザリアから少し離れた街の宿屋へ彼らが辿り着いたのは、雲で見えない太陽が沈んでしまってからのことだった。
幸いなことに宿に部屋はまだ余裕があり、主人も彼らのことを暖かく迎えてくれた。その暖かさが、連戦に続く連戦で肉体的にも精神的にも疲れていたラムザ達には――特にラムザ自身には――嬉しかった。
「僕が手続きをするから、皆は先に休んで」
中の暖気にラムザの頭にのっていた雪が融け、水滴となって彼の髪を濡らす。それを拭いながら彼は笑顔をつくり皆に言った。
「何言ってんだよ、おまえが一番疲れてるんじゃないのか?」
「そうですよ、ラムザさんこそ先に休んだ方がいいですってば」
持っていた銃を丁寧に拭いながらムスタディオは言い、算術士になったばかりのバイオレットがそれに同調した。
ラムザの浮かべた笑顔……それが作られたものに過ぎないということ、それは仲間なら誰もが気付いていた。ラムザが周囲から与えられ続けている精神的なダメージ……それは一人で背負うには荷が重過ぎると仲間の誰もが感じていた。普通の者なら逃げ出してもおかしくはない……しかし彼はそれに立ち向かおうとしていた。決して逃げ出さずに、堂々と。それだからこそ自分達は彼についているのだ――それもまた仲間達は気付いていたが。
「大丈夫だよ。……やだな、そんな心配そうな顔しないで」
「だけどな……おまえ……」
「大丈夫ったら大丈夫。ほらほら、皆も疲れてるんだから休んで休んで」
そしてラムザも仲間達の気遣いは分かっていた。しかしそれ故に余計彼らを心配させたくないという気持ちが募る。仮にも自分はこのチームのリーダーなのだからと。
主人から渡された手続きの書類をひらひらと振ってラムザは言ったが。
「……好意は素直に受け取るべきだな。貸せ、私が手続きをする」
「ア、アグリアス」
今まで黙って様子を眺めていたアグリアスがラムザの手から書類を取り、彼に言う。
「疲れているときに必要以上にそれを隠しても何にもならないぞ」
「……」
「さっすが、アグリアスさん、いいこと言う!」
ムスタディオは相変わらずの明るい調子で言ったが、ラムザはそれを耳に流していただけで聞いてはいなかった。ただ何も言わずに、書類を自分から取った相手を見つめた。
そうしてアグリアスもまた、そんなラムザの肩をぽんと叩いた。
「……分かった。先に休ませてもらう」
「そうするといい。ゆっくり休め」
もう一度ラムザの肩を叩き、アグリアスは言い、それにラムザも頷く。仲間達に先に休むことを詫び、おかみに彼が部屋を案内されていくのを仲間達は眺めていた。
「皆も早く休むことだな。ここでたむろしていても始まらないだろう」
ぼんやりとラムザが去っていった方をぼんやりと皆が皆、眺めていたのでアグリアスは苦笑した。その言葉に皆がはっと我に帰る。
「そ、そうですね……じゃ、私もお先に」
「アグリアス、あと頼むな」
口々にアグリアスに言いながら、それぞれ割り当てられた部屋に仲間達が向かう。そうして最後にはアグリアスとムスタディオの二人だけとなった。
「なんかこう……ぱーっと明るいことでもあればいいんだけどなあ……。……それじゃ、おやすみなさい」
「ああ」
拭いおわった銃を肩にかけ、ムスタディオもその場を立ち去り。
それを見計らったように店の主人がにこやかにアグリアスに声をかけた。
「それでは、手続きの方、お願いします」
「……では全部で8名様で」
「ああ、頼む」
それから四半刻後、ほぼ手続きも完了しようとしていた。最後にざっと確認すると主人が先ほどアグリアスが書いた書類を帳簿に括り付ける。
「……それにしても凄い雪と風だな……」
建物を時折揺らすほど強い風が外では吹いていた。夜に入り、雪だけではなく風も出てきたらしい。その音にアグリアスは耳を澄ましていた。
「しばらくは止みそうにもありませんね、これは」
彼女の呟きに主人も頷く。
「そうか……」
少なくともこの雪と風が止まなければ先に進むことは出来ないな……。
そう思い、アグリアスは小さく嘆息した。本当は出来るだけ早くリオファネスの城へ向かわなければならないのだ。こんなところで無駄足を踏んでいる場合ではないのである。
「やれやれ……この吹雪で花たちも震えているな……」
「?」
窓から外の様子をうかがい、そろそろ自分も部屋に入ろうと思っていたアグリアスはそんな主人の呟きを聞き、もう一度帳場へと目を向けた。そういえばこの帳場の上には、冬だというのにたくさんの白い花の鉢植えがおかれている。
「この季節に花とは珍しいな」
外の雪と同じくらい白いその花々をアグリアスはじっと見つめた。そうして見ると確かに主人の言うとおり、花々は風が鳴るたびに微かに揺れてみせるのだった。
「本当は早春に咲くのですが……部屋の中に置いてあることもありまして、磨羯の月にも咲いてしまうのですよ。私や家内はこの花が好きでしてね。見ていると心が和みます」
「なんという花だ?」
下向きに咲く白い花。普段は花を愛でることもあまりないアグリアスだったが、その素朴にして可憐な花は確かに見ていると心が和んでくる。主人の言う通りだった。
そして、アグリアスがその花に興味を持ったのが嬉しいのか、主人もまた彼女に丁寧にその白い花についてあれこれと説明してくれたのである。
「スノードロップといいます。遠い異国の言葉ではマツユキソウとかユキノハナ……などとも言いますな」
「スノードロップ……マツユキソウ……面白いものだな、早春に咲くのに雪を待つ草とは」
咲きかけている花をちょん、と突付いてみてアグリアスは微笑んだ。
「ええ。確かにそうですが、この花は雪が融けると咲き出す。どうやら雪を融けるのを待って咲く草という意味らしいのですよ」
そうして主人もまた花を見、微笑む。本当にこの花が好きだということがアグリアスにも分かるくらいの笑みだった。
「なるほど……本当に好きなのだな、スノードロップが」
「ええ……好きなんですよ。この花に込められている言葉も含めて、ね。この花の花言葉もまたいいんです」
「まーた、あなたはお客さんにスノードロップの話を……すみませんね、この人、冬の間中はスノードロップに興味持った人には延々と花の講義を始めるのが癖というか趣味で……」
ラムザを部屋に案内し終え、おかみが戻ってきたのはちょうどそのときだった。にこにこ顔で亭主がアグリアスに説明しているのを見て眉を顰める。
といっても、別にアグリアスがうら若き女性であるから、といった理由でおかみが眉をしかめているのではないようである。どうやら彼女の夫は宿屋を訪れる者があるたびにこの花について語るのが趣味なのらしい。
「だっていいじゃないか。他にやることもないし」
「だけどね、おまえさん……」
花の講義を途中で遮られ、不機嫌そうに主人が抗議し、おかみもまた呆れ顔で夫に言いかけた。
「いや、楽しく聞かせてもらっていたが」
そのおかみのぼやきを遮ったのはアグリアスだった。くすくすと苦笑しながら二人の様子を眺めていたのである。
「おかみ、あなたもまたこの花が好きなのだと聞いたが?」
「ええ、それはそうですが……実を言うとこの人の影響で私も好きになっちゃったんですけどね。毎年咲くのを楽しみにしているんです」
「おまえもしっかり説明しているくせに……」
ぼやきながら主人は言った。
「なんか言った?」
「うんにゃ。……さて。そうだ、夕食はそれぞれのお部屋の方がよいでしょうか?」
これ以上おかみ相手に言い争っても始まらない、自分が負けるだけだと主人は思ったらしい。かなりずれていた話題を元に戻し、そうしてアグリアスに訊いた。
「それとも皆さん御一緒で?」
「……いや、今日はもう遅い。何か軽めのものを各部屋に」
そうアグリアスは言ったが、本当のところは少し違う。先ほどのラムザに限らずともそれぞれがそれぞれ、多かれ少なかれ疲れている。ゆっくりしたい、というのが本音だろう。
「分かりました。……おまえ」
「はいはい。それではもう少ししたらお部屋の方へ運びますね」
にっこりと笑いおかみはその場を辞去した。そしてアグリアスも今度こそ部屋に入ろうとしたのだが、しかし思い出したように振り返り主人に訊いた。
「何か?」
おかみと同じように、にこにこしながら主人はアグリアスに応えた。
「それで、この花の花言葉は何と言うのだ?」
アグリアスはそんな主人に改めて、その白い花の……スノードロップの花言葉を訊いたのだった。
次の日はやはり、宿屋の主人が昨夜言っていたとおり吹雪だった。
風は止まず、気温は下がり、細雪が横殴りとなって吹き荒れる。こんな天候ではきっと外に出ても数刻と持たないだろう。朝方ラムザはそう判断し、よって今日一日は休日となったのだが。
この吹雪である。どこかへ行こうと思ってもそれは勿論かなわない。そんなわけで全員が全員この宿で過ごすほかなかったのだった。
「凄い雪だなあ……」
ルザリア地方の地図を見ていたラッドが顔を上げ、それで彼と同じように宿屋のフロアにいた他の者も窓の外を見た。
「なんか白一色って感じですね」
とはバイオレット。確かに的を得ているのだが、この期におよんでそんなことを聞かされても、と誰もが思った。
「いくら冬だからってこれじゃ気が滅入るわ……」
「ただでさえ……急がなきゃならないしなあ……」
カーシャが言い、マーローもぼやいた。何か他にすることがあればいいのだが、何もすることがないのが辛いところである。
「気ばかり急いても仕方ない」
暖炉の近くで剣の刃こぼれを点検していたアグリアスは言った。
今いるメンバーの中で彼女はもっとも戦歴が長い。その長年の知恵とでもいうのだろうか、ただ技術の面だけではなく、精神的な面でも彼女はコントロールするのが上手だった。どんな状況でも自分を安定させることが出来るのである。
「そーそー」
彼女の言葉に真っ先に頷いたのは、彼女とは対極的にも見えるムスタディオだった。
「アグリアスさんの言うとおり。たまの休日なんだからゆっくりしなきゃね。……ラムザも一人でこもってないでここに来ればいいのにな」
卓の上に彼もまた自分の武器である銃を取り出していた。そうして一つ一つの部品を確認し、整備しているのである。
「ラムザ……そういえば姿が見えないが」
ラムザの話題が出、アグリアスは内心焦りをおぼえた。しかし何故焦るのか、それは彼女にも実は分かっていない。
「部屋でぼーっとしてる」
とはラムザと同室であるラッド。
「やっぱり相当疲れているというか……まいっているというか。ここ最近で起こってること考えれば仕方ないんだろうけど……少し気になる」
「そうですよねー……。前の明るい表情が最近ないんですよね……」
「だから、やっぱりぱーっと何か明るいことでもないかなーと思うのは俺だけ?」
「……」
最後のムスタディオの科白は置いておいて、他の仲間もやはりラムザのことを心配しているのだった。どんな状況でもラムザは明るくなければ。彼の置かれている状況を他人事として捉えているわけではない。否、彼を知るからこそ各人が本当にそう思っているのである。
やはりこれは信頼されている証なのだろうな。アグリアスは思った。
「ぱーっと、ねえ……」
しかしアグリアスの考えとは別に、ムスタディオの「ぱーっと」の意見はあながち無視されたわけでもないらしい。マーローがぼんやりと考えを巡らせ始める。他の者もどうにかしてこの暗い状況を少しでも明るいものに出来ないかと考え始める。そんな様子を見ながらアグリアスはふと、この会話に加わっていないがこの場にはいるアーネストに目をやった。
見ると、アーネストは種々の本に埋もれていた。
「……う~~、分~か~ら~な~い~~~」
「何をやっているのだ、アーネスト?」
いつもは明るく陽気に場を盛り立てるアーネストが、何故か今日は本に埋もれている。しかも、頭を抱えて。
「あ、アグリアスさん。私、今度話術士になったんですよ。だから今その勉強してるんです。ちゃんと辞書を使いこなすためのね」
「辞書……なるほど」
本の一冊をパラパラとめくってみる。彼女が言うとおりそれは辞書だった。
しかし、辞書すら武器になるとはアグリアスも思っていなかった。それを知ったのは、この前のゴルランドでオーランとかいう青年が辞書を用いて戦ってからである。ちなみに、ムスタディオなどは辞書が武器にあるということは知っていたが、それはその辞書で相手をばしばしっとぶん殴るためだと思っていたらしい。閑話休題。
「だっけど頭が痛くなってきた……私も話に参加しようっと」
「この辞書……少し読んでもいいか?」
その中の一冊を取り、アグリアスはアーネストに訊いてみた。
「いいですよ、あんまり面白い本ないと思いますけど……」
そう言い、アーネストは仲間の会話へ入っていった。残されたアグリアスは一人で、一冊一冊本を見ていった。確かにアーネストが言ったように面白い本はなかった。
「そういえば、今日って何日だったっけ?」
フロアの反対側でムスタディオが皆に問いかけるのが聞こえる。会話に参加しないまでも、アグリアスもその会話に耳を傾けていた。
「今日は……磨羯……の10日?かな」
「月日が経つのは早いものですねー」
「……おまえ、それって何だか年寄りっぽいぞ?」
そんな他愛もない会話を聞きつつ、本を見ていたアグリアスの手が止まった。その本の題名は「Dictionary of Flowers」。どうやら花に関する様々な雑事などを記した辞典というより、事典らしい。
『スノードロップに関する記述は……?』
花、と聞いて彼女は真っ先に昨日のスノードロップを思い出した。あの夫婦ではないが、彼女もまたスノードロップを好きになっていた。素朴ながらも風雪を耐え、そして咲く花は白く本当に雪のようだった。可憐というより健気という言葉がぴったりだった。
フロアの端に帳場はあるため、彼女の位置からもその花々は見えた。昨日つぼみだったものも花開いたらしい。スノードロップは静かに咲いていた。
そうしてアグリアスはその辞書をめくっていく。「S」の欄をめくっていくとそれ……スノードロップに関する記述はあった。
スノー‐ドロップ【snowdrop】
ヒガンバナ科の観賞用植物。約二○種分布。葉は線形でうすく白粉を帯びる。20cmほどの花茎を出し、先端に数個の白色花を下向きにつける。花被は六弁、早春に開花。秋植の球根類として栽培。ユキノハナ。マツユキソウ。
★誕生花:磨羯10日
「……今日なのか……」
「ええーッ!?今日、10日!?だったら今日じゃない!」
期せずして本に目を落としていたアグリアスの呟きと、カーシャの叫び声が重なった。その声に皆が呆気に取られたように彼女を見る。そしてアグリアスも本から目を上げ、彼女を見やった。
「な、なんだよ。何が今日なんだ?」
殆ど整備し終えた銃を取り落としそうになりながら、ムスタディオが訊ねる。
「……?」
「ラムザよ!今日、ラムザの誕生日!」
「ええ!?」
目を輝かせ、カーシャは声を弾ませる。それとは逆に妙にぼんやりとラッドが頷く。
「そーいえばそーだ……今日、あいつの誕生日だよ……」
カーシャも、そしてラッドも共にラムザの士官アカデミーからの仲間だった。ラムザを古くから知る人間と今ではなり得たりするのである。
「何かさっきから引っかかってたんだけど……やった、これで騒げる!」
それは何か違うぞ、と誰もがカーシャの歓声に思わずにはいられなかったが、確かに彼女の言っていることも正しかった。
「よーし、今夜は騒ぐぞっ!」
素早く銃をしまいこみ、ムスタディオが立ち上がった。
とりあえず「何かこうぱーっと」騒げるきっかけは出来たわけである。それも、一番落ち込んでいる者の誕生日という絶好のきっかけだった。
『誕生日……?今日がラムザの?』
早速仲間達はあれこれと今夜の相談をしはじめた。未だスノードロップの記述が載っている頁を開いたまま、アグリアスはそれを見ていた。
「アグリアスさん、今夜ラムザのバースデイパーティーやるって今決めたんだけど、いいよね?」
「あ?ああ、もちろん」
ムスタディオがアグリアスに同意を求め、彼女は慌ててそれに応じた。反対する理由は何もない。むしろ積極的に賛成だった。ラムザの落ち込みはアグリアスも心配するところだったのだから……。
しかし、彼女がぼうっとしていたのはそのためではなかった。ムスタディオに話しかけられ、一旦我に帰った彼女はもう一度、スノードロップの記述を読んだ。
『誕生花……磨羯10日……スノードロップはラムザの花だったのか……』
そう言われてみれば、とアグリアスは思った。
ラムザも、そして帳場を埋め尽くすほどに咲いているスノードロップもどこか似ていた。どこがどう似ているのかと言われれば困るだろうが、そのあり様が似ているのだ、アグリアスはそう思った。
そしてそんなスノードロップの花言葉は。
「あれ、アグリアスさん?」
「少し宿の主人のところへ」
フロアを出て行こうとするアグリアスをバイオレットは話に参加しないのかと呼び止めた。しかし、アグリアスは軽く片手を上げ、短く言うとその場を去る。
そうしてアグリアスは、スノードロップに埋もれた帳場の奥にいる主人のところへ、ある相談を持ち掛けに行ったのだった。
「……」
薄闇の中で、ラムザはその瞳を開けた。部屋の中に誰かがいる気配はなかった。同じ部屋のラッドは下のフロアにでもいるのだろう。
もうひとつ、色々考え込んでしまった挙句にいつのまにか眠り、そして目覚めたばかりの彼が気付いたことがあった。辺りが妙に静かだということである。
「……雪、止んだのかな……」
起き上がり、素足のまま彼は窓際へ歩み寄った。まどろみから目覚めたばかりの体には、素足から伝わってくる床の冷たさも心地よかった。
「ああ、止んだんだ……」
そっと呟くと、彼の口元から白い息がもれた。この寒さに暖炉もつけていなかったのである。
窓から見える外の風景はどこまでもどこまでも雪野原、であった。街外れの宿屋から臨む丘は、風と雪でただの何もない白い野原に姿を変えていた。
そして、空は青とも紫とも赤ともつかない微妙な色を呈していた。そして白い雪がその空の色を反映し、白なのにどこか白でない……他の色に染まっているような、そんな風にも見えるのだった。
どうやら夕暮れ時らしい。
空の色からそこまで類推しつつ、ラムザは窓の外を見たまま思い切り伸びをした。今日一日ずっと寝ていたことになる。しかし、ゆっくり休めと言われたものの、ちっとも疲れは取れてはいないというのが本当のところだった。
寝台に寝転がり、疲れを取るために眠ってしまおうとしても、色々なことを考えてしまう。今までのこと、そしてこれからのこと……別に今になって初めて考え出したことではないが、こんなに感傷的、悲観的になって頭の中を回るのは久しぶりのことだった。
「ふう……」
ラムザは溜め息を付いた。
そうやってそのまま眠りについたものだから、疲れが取れるわけがない。むしろ疲れは増してしまったといった方がよかった。
疲れを少しでも取ってしまうためにラムザは再度伸びをした。そうして至極大雑把に身なりを整える。部屋を出て何か食べるものを取ってくるためだ。
どんなに疲れていても空腹は覚える。まして、ラムザは結局昨夜は何も取らないまま寝台に入ったのだった。
「ラムザ?起きているか?」
こんこん、と軽く扉を叩かれ、外からアグリアスの声がしたのは、ちょうどそのときだった。
「アグリアス?」
靴をつっかけ、ラムザは扉に向かった。扉を開けるとそこに立っているのは彼の予想通りアグリアス。
しかし、そのアグリアスは妙に神妙な、いつもにまして生真面目な表情をしていた。
「ラムザ、皆が話があるそうだ。しばらくしたら下の酒場におりてきてほしいと言づてを頼まれた」
「話?」
繰り返し訊いたラムザにアグリアスは頷いてみせた。ともすれば緩んでしまいそうな頬の筋肉を引き締めるために、ことさら神妙な表情で彼に言う。
「そう。もうしばらくしたら来てくれ……とのことだ。……では、私は伝えたからな」
未ださっぱり訳が分からないような(それはそうだろう)顔のラムザをそのままにし、アグリアスはその場を離れた。取ってこなければならないものがあるのである。それを取りに彼女はこれから行くのだった。
「……?」
一方、ラムザはアグリアスがその場を離れてもなおもきょとんとした表情を変えることが出来なかった。瞬きを10回ほどしてから、そうして彼は部屋に戻った。
『話……?なんだろう』
思いながら、彼はかけてあった服に手を伸ばした。何にせよ、話があるというのなら少しはちゃんとした服装をしておいた方がいいだろうと思う。先ほど身なりを整えたとはいえ、それではあまりに大雑把にすぎた。未だ髪は少しばかり寝癖が付いているし、着ていたものも甚だラフなものだったのである。まあ、着替えるといっても普段着を着ただけのことだが。
『まさか、皆で除名してほしいなんて……』
着替えてしまい、ラムザはもう一度伸びをした。そろそろいいかな、と思う。
しかし、本当はアグリアスの「話があるそうだ」というのを聞いたときから彼の心は少しく暗いものになっていた。聞くこと見ること、今の彼は何もかも負に捉えてしまう。
『皆が話があるというのは、もう僕について戦うのなんかまっぴらだってことかな……』
そんなことはない、とは彼自身言い切れなかった。それどころか、むしろそうに違いないとも思った。
最近の次第に厳しくなる戦況、そしてそれを統率しきれない自分……。愛想をつかれても仕方がない……。
「……」
耳を澄まし下の様子を窺ってみる。しかし、いくら耳を澄ましてみても物音一つ、階下からは聞こえてこなかった。静寂が耳に痛いばかりである。
ラムザは扉を開け廊下に出た。しばらくしたら来い、とアグリアスは言った。今からゆっくり行って丁度いいだろうか。
『もし皆がそうしたいって言うのなら……』
廊下をゆっくり歩きつつ彼は考える。
止めるつもりはなかった。淋しく思うだろうが、しかしよくよく考えてからきっと皆はそう言うのだろうから。人の人生を自分が決めることは出来ない……。大切なものを投げ打って自分につくことは必ずしも正しいことではない……そう、思った。
ただ、もしそうなったとしても。一人になったとしても。自分は戦い続ける、戦い続けるしかない。それだけはどんなに精神的に疲労していても変わることはなかった。
出来れば、どうしても。自分と一緒に戦ってほしい……そういう人は彼にもいたが。
階段を下り、彼は酒場の扉の前まで来た。小さく深呼吸をし、扉の取っ手に手をかけた。
「……」
そうして、ラムザは頭の中に全然違うト書きを用意しながら扉を開けたのだった。
彼は扉を開けた。皆が取り囲んでいる卓を探そうとした。
しかし。
「誕生日、おっめでとーー!!」
「ラムザ、おめでとう!」
「ほえ?」
皆を探す必要はなかった。扉を開け、すぐ目の前に彼らはいた。ただ、何が起きたのか、それが彼には瞬時に分からなかった。
今、皆何て言った?
「……??」
「あ、ラムザさん呆けてる!」
「なんだよ、そんなに驚いたのか?豆鉄砲くらったような顔して」
バイオレットが笑い、ムスタディオもいつもの調子でラムザに言った。他の仲間達も笑顔で彼のことを見ていた。ラッド、カーシャ、マーロー、アーネスト……そしてアグリアス。
「た、誕生日……?僕の……?」
「そうよっ!磨羯10日……今日はラムザ、あなたの誕生日じゃない。自分の誕生日、忘れちゃったの?」
ついさっきまで自分も忘れていたカーシャが言い、しかしそれでラムザはそのことに気付いた。確かに今日は自分の誕生日だ。
「あ……」
ようやく思い出したらしい。ラムザの様子を見て皆が微笑った。
「そこでだ。皆でおまえの誕生祝いをやろうと思ってなっ」
未だ少しばかり呆けたままのそんなラムザをぐいぐいと卓へ引っ張りながら、ムスタディオは陽気に言った。見れば卓にはすっかり宴の用意がしてある。
「は、話は……?」
「これが話だよ」
ラッドが言う。そしてそれに皆が頷いた。ラムザがとんでもなく悲壮な決心をしていたことなど、勿論彼らは知る由もなかった。
まだまだぼーっとしているラムザを座らせ、各人もまた席についた。先ほど宿屋主人が「それならば」と蔵から出してきてくれたとっておきのロゼをアーネストが手際良くサーブする。
誕生日……。誰かに祝ってもらえるなんて思ってもみなかった……。
全然違う展開を予想していたこともあってか、ようやくラムザはこれが現実なのだと思い始めた。暖かい。一人じゃないんだ……それが何より、嬉しかった。
「では、皆さんカップは行き渡りましたかー?」
「はーい!」
ムスタディオが立ち上がり、カップを持つ。その様子はさながら宴会幹事といった感じだ。
「それでは僭越ながら俺……じゃなかった、私・ムスタディオがこれなる……なんだよ、ラムザ。急にニコニコ顔になって」
乾杯の音頭をとろうとしたムスタディオは、この宴の(一応の)主賓であるラムザを見やり、その音頭の文句を途切れさせた。さっきまですっぽ抜けた表情をしていたラムザが、いつものように笑っていたからだ。
「なんでもない」
「やっと状況が把握できたみたいだな」
アグリアスもラムザに語りかけた。やはりラムザには笑顔が似合う。彼女ならずとも皆が皆、そう思った。
「そんなところ」
くすすっとラムザが微笑み、皆も笑った。そして、それを見計らいムスタディオがもう一度音頭をやり直す。
「気を取り直して、と……。皆さんカップを持って下さいねー。……それでは、ここにいるラムザ……ラムザ・ベオルブの誕生を祝い、これからの前途がなんとか明るいことを祈って……乾杯ー!」
「かんぱーい!」
「ありがとう!」
乾杯を受けながら、心から暗いものが少しずつ消えていくのをラムザは感じていた。少なくとも今、この時だけでも自分は一人じゃないから。それだけで心は大分楽になっていた。
「誰か芸やれー!」
かくして、どんちゃん騒ぎは始まった。
「それではっ!算術士バイオレット、CTランダムトード、いっきまーす!」
「うわーーー!やめれーーー!」
皆が皆、大いに騒ぎ、笑う。それはアグリアスも例外ではなかった。
しかし、彼女は視界の端で宴の間、ずっとラムザを見ていた。先ほど部屋の前で見せた彼の暗い表情。それが気になっていた。
それから、彼女は卓の下に隠してある木箱をちらりと見やった……。
宴は、狩人の三つ星が西の空に傾く頃になっても、まだなお続いていた。
この宿屋に泊まっている客が他にいないこともあってか、酒場は貸し切り状態である。しまいには、宿屋の夫婦も席に加わって宿全体がぶっ壊れるくらい騒ぎ始めた。
『……?』
ラムザがそっとその場からいなくなったのはその頃合だった。どこへ行ったのか、と宴が始まったときからラムザのことを目で追っていたアグリアスは、辺りを見回した。
いない。外に出てしまったのだろうか。
「……」
そこで、誰にも気付かれないように、彼女もまた酒場を抜け出た。今日のうちにラムザに渡してしまいたいものがあったのだ。卓の下に隠してあった木箱である。
どうも少しばかり変だ、と彼女は最近感じていた。ラムザではない。自分のことである。
人の熱気で暑いくらいの酒場から廊下に出ると、空気が少しひんやりと感じられた。フロアには暖炉がつけられているのにも、関わらず、である。
「涼しい……」
どうして気になるのだろう。
フロアの奥、テラスに出るための扉が開いていることに気付き、その方へ歩みながらアグリアスは思った。誰かの表情や仕種が気になること……それは彼女にとってついぞなかったことだった。
扉に手をかけ、彼女はそっと外の様子をうかがう。そこには……テラスには、彼女が探していた人がいた。
『……』
ラムザは、テラスのへりに手をかけ空を仰いでいた。アグリアスが戸口で見つめているのにも気付かずに。
空には満天の星々。テラスに臨む南の冬空は、星の競宴なのではないか、と思うくらい星が瞬いていた。
「ラムザ」
じっと動かず星を見続けている彼に声をかけてよいものか、アグリアスは迷った。しかしここでこうしていても仕方がない。持っていた木箱を、落とさないように持ち直すと彼女はテラスへと入った。
「アグリアス……」
「星を、見ていたのか?」
突然声をかけられ驚いたように振り向いたラムザに、アグリアスは訊いた。そうして、彼女とラムザはテラスのへりに並んだ。
遠くで皆の騒ぎ声が聞こえる。しかし、それ以外は全くの静寂だった。いや、その騒ぎ声すら掻き消してしまうほどに降り積もった雪は、全ての音を吸収し尽くしていた。
空に月はない。しかし、星が冴え渡っているのと雪明かりで、辺りは妙に明るかった。
「うん……少しね。皆はまだまだ?」
アグリアスが隣に来たために、ラムザはまた、へりに寄りかかるようにしながら外の景色へと目を向けた。
「そうらしい。まさか朝まで飲むつもりではないだろうが……」
「何か騒ぐためのだしに僕の誕生日を使われたような気もするけど……」
怒っているのではない。ラムザは微笑っているのだった。人の、仲間の暖かさがしみじみ嬉しくてラムザは微笑っていた。
「まあ、そうともいえなくはない……」
ラムザのそんな微笑みをアグリアスは見ていた。青年と少年の狭間の時期の表情。運命に立ち向かうのか、それとも翻弄されてしまうのか……両方なのか。全てに戸惑い、まだ先の見えなすぎる未来に不安を感じずにはいられない……ラムザの微笑みの中には、表情には、様々な想いが隠されている、とアグリアスは感じていた。
少し前までは、もっと明るい笑顔を皆に見せていたような気がする。その頃はあまり意識もしていなかったからよく覚えていないが……。
「でも、嬉しかった。色々考え込んじゃってたから……」
「……ラムザ、これを」
色々考え込んでいた。
彼の口から直接それを聞いたのと同時に、アグリアスは持っていた木箱を彼に差し出していた。少しでも彼が再び前を向くきっかけにでもなってくれれば、と思い。
気安めにすぎないのだろうけど……。頭のどこかではそんな思いもまた、彼女にはあったが。
「え……?」
そしてラムザは、彼女から差し出された木箱をぼんやり受け取った。箱は、重いというわけでもなかったが、軽いというわけでもなかった。
「私からの誕生祝いだ」
言ってしまってアグリアスは明後日の方向を向いた。差し出た真似をしてしまったか、そう思ったのである。
ラムザは、その思い切りそっぽを向いてしまったアグリアスを見ていた。
「……ありがとう……。……開けても、いいかな?」
「ど、どうぞ」
ラムザの問いに、明後日の方向から少しだけラムザの持つ木箱に視線を戻し、彼女は頷いた。
それを確認してからラムザは箱にかけてあった紐を解いていった。そうして箱の上蓋を滑らせ、中を覗き込む。
「……花……?」
木箱の中身を見たラムザは呟いた。それにアグリアスは頷く。
―――そう、箱の中にはスノードロップ。
素焼きの鉢に、それは一株だけ植わっていた。そして、先端には3つの白い花。
「スノードロップ……マツユキソウ、というのだそうだ」
花をじっと見つめるラムザと同様、アグリアスもそれを見ていた。やがて、注意深く、慎重にラムザはそれを箱から取り出した。
「宿屋の主人から、一株だけ分けてもらった。本当は早春に咲くらしいが」
「スノードロップ……」
ラムザが見つめる前で、スノードロップは時折風に揺れた。細い葉と同じように下向きに咲く白い花も少し重そうに風に揺れてみせる。彼はアグリアスの話を聞きつつそれを見ていた。
「……この花は、ラムザの花だよ」
「え?」
突然のアグリアスの言葉にラムザは顔を上げ、彼女を見た。アグリアスは微笑っていた。ラムザが今まで見たことのないほど、それは綺麗な微笑みだった。
スノードロップで和んだ心が、さらに安らぐような微笑み。
ただ、そんな微笑みで彼女がラムザに言った言葉、その意味がラムザには分からなかった。
「磨羯10日に生まれた者の花は……誕生花は、スノードロップなんだ」
「え……」
彼女に言われ、彼は再度花に視線を落とした。磨羯の10日に誕生した者の花が……この白い、素朴な花……?
「だから……。この花はラムザ……あなたの花だ」
アグリアスもやはり、スノードロップを眺めていると心が穏やかになっていくのだった。……この花がラムザの誕生花なのだと知ってからそう感じ始めたわけではない。しかし、そうと知る前より余計、スノードロップを見ると暖かい気持ちになれてしまう自分に、彼女は気付き始めていた。
「アグリアス……」
「……誕生花ということでなくても、私にはこの花がラムザと同じように見える」
ラムザの返答を待たずに、アグリアスは続けた。
「この花は……早春に咲く。雪が融けるのを待って咲くんだ。長い冬を越えて、それでもまだ寒いのに」
はたしてラムザにはうまく伝わっているのだろうか。話しながら、実はアグリアスは不安だった。
「だから…………ラムザ?」
言いかけて、アグリアスはやめた。ラムザの肩が小刻みにだが震えている。それにアグリアスは気付いた。
そして、スノードロップの花に滴が落ちる。落ちて、それは花の上を滑り、鉢の中の土に吸い込まれる。
「……」
「何を……泣いている?」
彼女から顔を逸らし、ラムザは泣いていた。激しく鳴咽するのでもなく、ただ肩を震わせ、彼は泣いていた。
「分からない……」
彼が答える間に、涙はスノードロップへと落ち続ける。うつむいた彼が、抱え込むように持っている白い花に。
「ラムザ……」
「ごめん……泣くつもりなんか……ないのに」
ぐい、と乱暴に袖で涙を拭うと、ラムザはスノードロップを箱にしまった。そうして上蓋をし、彼が箱を床においたとき、アグリアスは言った。
「泣いているのだったら、次にどうしようか考えたほうがいい……ただ泣くことは意味がない……そう思う。……でも、ラムザ」
「どうしても……というときはどうすればいいんだろう……」
涙目のままでラムザはアグリアスに訊ね、しかしアグリアスは彼の問いではなく、表情そのものに思わずはっとした。さっきラムザの部屋の前で彼が見せた表情とそれは、殆ど一緒だったからだ。一時の笑いで消えてしまうような表情ではない、翳りのある表情。
心に溜まってしまった疑問や悩みはそう簡単に消えるわけではない……。考えすぎ、悩み込んで、そうしてそのとき初めて泣きたいと思ったときは……そのときは。
「……誰か……受けとめることが出来る人の前で泣けばいい……」
ゆっくりと、アグリアスは言った。一言一句をかみしめながら。
彼女はもう分かっていた。
とっくに気付いていた。
―――自分が、彼の涙を受けとめたいのだということを。
「ここの仲間なら……誰でも受けとめることは出来るだろう……」
しかし、彼にそうしてほしいと口に出して言う勇気までは自分にはない……。それもまた、彼女は分かっていた。
「……」
風が、鳴った。雪に音を吸われ損なった風の音は、二人の耳に物悲しく響いた。
「……そろそろ戻らなければな。風邪を引きかねないし、皆も心配するだろう……」
アグリアスは夜空を見上げた。僅かに浮かぶ雲の流れは速く、星は煌煌と冴え渡っていた。おそらく今宵は冷え込みが厳しくなるだろう。
まだ酒場からは、騒ぐ仲間達の声が聞こえる。やはり、このまま飲み明かすつもりなのだろうか。
「それなら……アグリアスがいい……」
「ラムザ?」
聞き間違えたか、と彼女は思った。というより、彼の言葉を良く聞き取ることが出来なかった。
ラムザは、私がいいと言ったのか?……本当に?
半ば信じられない思いで、彼女は彼をただ見つめた。
「出来るなら……アグリアス、あなたに」
ふたりの間に距離などほとんどなかったが、ラムザはそれでも、気持ちばかり彼女へ歩み寄った。手を伸ばせば届いてしまいそうなくらいだった。
「……いいよ」
そして。
実際にふたりは、ほぼ同時に互いに手を伸ばした。否、ほんの数瞬だけアグリアスの方が早かったのかもしれない。
アグリアスは、文字どおり彼のことを受けとめた。勿論、再び静かに零れ始めた涙も、共に。
「……ほんとは……逆じゃなきゃならないんだろうけど……」
震える声で、ラムザが小さく言う。アグリアスはそれに軽く首を振った。
「余計なことは気にするな……」
「うん……」
彼の肩を、彼女は片方の腕でそっと抱いた。そして、いつしか自分の肩に乗せられた彼の頭の重みに気付いて、もう片方の手で彼女は彼の髪を撫でた。
肩から腕へ、震えが伝わる。自らの肩に、熱いものが止め処もなく落ちるのを感じる。しかし、彼女が何より感じていたのは、そんな彼の……ラムザのぬくもりだった。
そして、そのぬくもりは心地よかった。
誰より暖かい心を持っているから……きっとそのためなのだろう……。
涙を受け止めながらアグリアスは思った。
そう、自分もこの暖かさに触れることが出来たから……今、ここにこうしているのだ……。
また風が鳴った。
どれだけこうしていたのだろう。アグリアスの視線の先にある狩人の三つ星は西の山の端に隠れようとしていた。
ラムザの肩の震えはほとんど収まっていた。それでもふたりは、じっとそのままで動こうとしなかった。
「分からなく……なってきていた。全てに逆らって、全てを失いそうになっていて、全てに狙われて……。誰にも信じてもらえなくて。そうして僕は何をやろうとしてるんだろうって。どうしてこうなってしまったんだろう……分からなくて」
「……」
やがて、ラムザはぽつり、ぽつりと呟いた。共に戦ってくれている人にこんなことを言っていいのか……それもまた、彼には分からなかった。
しかし、誰かに全ての感情を吐露してしまいたかった。それも、できれば今自分の傍らにいる人に、全てを。
「ごめん……こんなこと、言うべきじゃないのに」
「……謝ること……ない。でもね」
謝る彼の耳元にアグリアスは囁いた。
「ラムザ……あなたはひとりじゃない。たとえ世の中全てを敵に回しているとしても決してひとりじゃない……」
「……」
「誰にも信じてもらえないわけじゃない……どんなに少なくても、信じている人はいる」
自分も、仲間もそれは同じ。
家族や友人や……大切なものを振り払って、置いてきてしまっても彼についているのは、信じているからだ。分かっているからだ。ラムザが一番真実に近いのだということに。
「アグリアス……僕、嬉しかったんだ」
「?」
顔を上げてラムザは微笑んだ。
「処刑場で。アグリアスは僕のことを信じると言ってくれた……」
「ああ。確かに言った」
アグリアスは頷いた。ラムザに言われたそれは、彼女が一度たりとも忘れたことのない出来事だった。
「僕は誰かに信じると言われたことがそれまでなかった……。アグリアスが初めて言ってくれた。……だから嬉しかったんだ、あんな状況でも」
「今も、信じている」
まっすぐにラムザを見つめてアグリアスは言った。そうして、肩に回していた腕をゆっくりと外す。
……自分は、誰かを心から信じたいと思ったことがそれまでなかった。裏切りに遭い、自尊心を傷つけられ……絶望しかけていたときに、手を差し伸べてくれたのはラムザだった。自分の都合でなく、人のために何かをしようとするラムザ。この人なら信じられる。そのとき心からそう思った。
「ずっと私は信じている。ラムザがラムザであるかぎり、私は共に戦うと決めている」
「……ありがと……」
口先だけではないことはアグリアスにも分かった。ラムザの感謝の言葉は、彼女の心にしみこんだ。
「皆もそう思っている……だから」
「うん……。皆にも心配かけちゃって……だけどもう大丈夫」
「そうか」
彼女の言葉にラムザは再度頷き、それから先ほど床に置いたスノードロップの木箱を持ち上げた。上蓋を滑らせて中を覗き込む。
「あんまり寒いところに置いてたから……大丈夫かな……」
心配そうに覗く彼につられて、アグリアスもまた箱の中を覗き込んだ。先ほどと同じように白い花は咲いていた。
「大丈夫とは思うが……そろそろ中に入った方がいいな」
冷え込みが厳しくなってきているのは、身をもってアグリアスもラムザも感じていた。実はこうしているだけでもかなり寒いのである。
ただ、さっき身を寄せ合っていたときは別だけど……。それはお互いが思っていたが。
「そうだね。中に入ろう」
先ほどアグリアスが閉めたテラスの扉を開け、ふたりはフロアへと戻った。
「ああ、ラムザ。肝心なことを忘れていた」
「?」
酒場へ戻ろうとしたアグリアスの足が止まり、ラムザも足を止めた。首を傾げアグリアスを見た彼に、彼女はふふ、と微笑った。
「スノードロップの花言葉なんだが……」
一番大切な……、一番最初に彼に伝えなければなかったことを彼女は忘れていた。これこそ、自分が彼にこの花を渡そうと思ったきっかけなのに。それは、もしかしたら彼にとって何よりの特効薬なのかもしれないというのに。
「……この花の花言葉……?何?」
「『希望』だよ、ラムザ。スノードロップの花言葉は……」
どんな状況でも忘れてはならない、しかし一番人が見失いやすいこの言葉が、スノードロップの花言葉なのだと宿屋の主人から聞かされたとき、嬉しかったのを彼女は思い出していた。そして、この花がラムザの誕生花だと知ったとき、花言葉を思い出して妙に納得してしまったことも。
「希望……」
アグリアスの言葉を、最初彼はぼんやりと呟いた。そうしてしばらくして、彼は彼女にはっきりと言った。
「どんなときでも忘れちゃならないこと……いや、僕はもう忘れない……」
さっきまで失いかけたそれを取り戻させてくれたこの花と、そして何より彼女に誓って。その彼女と頷きあい、再び酒場に向かいながらラムザは思った。
私も忘れない……。そして、見失うこともけしてないだろう……あなたと歩んでいるかぎりは……。
ラムザの数歩先を歩きながら、アグリアスもまた思う。
「さておき、ラムザ」
酒場に続く扉の取っ手を握り、アグリアスは彼に振り返って言った。いたずらをする前のような、そんな笑みを浮かべながら。
「?」
またもや彼は首を傾げ、それを確認してから彼女は扉を開ける。
「うわ……」
酒場の状況を見て、ラムザは唖然とし、アグリアスは苦い笑みをもらした。
なんということか、彼らの瞳には、先ほどまでどんちゃん騒ぎをしていた仲間達が――そして、宿屋の夫婦もまた―――全員酔いつぶれて眠りこけているのが映っていた。勿論、宴のあともそのままである。
「どうやら、これを全て片付けるのは我々だということだろうな」
この酒場の凄惨な状況を呆けつつ眺め続けるラムザに、アグリアスはニッと笑ったのだった。
「それじゃ、これ、お願いします」
「はい、確かに」
次の日。空は澄み切っていた。
いつもの出立のときと同じ時間にラムザ達は宿屋の戸口にいた。ひとりふたり、具合を悪そうにしている者はいるが、あとの者はあれだけ飲んでもまだ平気なのらしい。二日酔いなぞ何処吹く風のようだ。
ちなみに、ラムザとアグリアスは一番睡眠時間が少ない(結局このふたりだけで酒場を片付け、全員を寝室まで運んだのだった)にも関わらず、昨夜はほとんど酒が入らなかったため仲間内では一番元気である。
「何時の日か、必ず受け取りに来ます」
少しだけ仲間に待ってもらって、ラムザは帳場にいた。そして、少し離れたところでアグリアスはそれを見ていた。
「ええ。お待ちしています。この花は球根類ですから、毎年咲かせておきますよ」
ラムザと、贈り主のアグリアスを見比べつつ、主人は微笑んだ。主人の視線に気付き、アグリアスは慌てて会釈する。
「それでは、お気をつけて」
「はい。お世話になりました」
ラムザに続き、全員が口々に宿屋夫婦に別れの言葉を述べ、そうして彼らは街外れの宿屋を離れた。これから向かう先はリオファネス城。彼らの戦いはまだ続くのだ。いや、むしろこれからと言った方がいいのかもしれない。
「なあ、さっき宿屋の親父に渡してたの、何だったんだ?」
宿屋を離れ、しばらくしてからムスタディオはラムザに訊いた。
訊かれ、ラムザはアグリアスを見やった。すると、彼女もムスタディオの話し声とラムザの視線に気付いたのか、片目を瞑った。
「なんだよっ。隠すなよっ」
ふたりの意味ありげな微笑みあいにムスタディオは喚いた。そんなムスタディオにラムザは笑いながら、短く一言、こう言った。
「僕の花だよ」
スノードロップの白い花と同じように白く積もった雪が、きらきら眩しかった。
~fin~